2016年8月29日月曜日

★ワタクシ的0歳〜51歳までの音楽拝聴遍歴についての考察②★



昨日まで、高円寺の阿波踊りが二日間ありまして、「一年生」という飲み屋さんの手伝いをしました。お店の外で「生ビール300円!」を大声で連呼すること数時間、其の間にサーバーから頂戴したであろう生ビール数杯分。完全にオーバー・スロートしてしまい、本日一日何もせず爆睡でありました。(笑)


あ、音楽遍歴でしたね。


ちょっと横道にそれますが、ワタクシのオヤジという人間はいわゆる「新しもの好き」なひとで、1976年当時、さして裕福な家でもない我が家に60万円相当のビデオデッキを購入し所持しておりました。当時VHSとかβなどという企画は統一されていない時代で、カセットテープはVHSの2倍位の大きさでしたし、3倍速録画なんてのもありませんでしたから、最大60分位で、私のオヤジはそれで仕事で観れない「銭形平次」とか「伝七捕物帳」とか録画していたわけです。さしたる収入もなく、ローレル2000SGXハードトップを乗り回し、先端技術のビデオデッキで時代劇を観るオヤジ。オフクロの苦労は計りしれなかった事は容易に察しがつきます。


しかし、その傍若無人の絶対権力に叛旗を翻す家族が現れました。
ワタクシです。(笑)


オヤジがタイマーで録画するその諸動作をすっかり盗み見していたワタクシは、こっそり何本かあるビデオテープの内の一本を盗み、ヤングミュージック・ショーやらの音楽番組を録画しては友達と観て楽しんでいました。但し、オヤジからかすめたテープは一本しかなかったので、ライブラリーとして保存することはできず、何週間か観たら新たなものを録画するという、それの繰り返しだったわけですね。それでも音楽好きな友達からは喜ばれました。


そんな中学2年生のある日、新聞のテレビ欄をながめつつ「さて、録画して楽しめそうな物はないかな?」と物色していましたところ、山形放送(日本テレビ系)欄に「日本テレビデジタル放送開始記念 番組矢沢永吉 後楽園球場コンサート」というのを発見しました。


「矢沢永吉?」はて、演歌のひと?
フォーク少年のワタクシは何も解らず、ただコンサートと銘打っているので、音楽番組だろうと録画して土曜の早上がりにそれを観たのですね。


しかしそれは全く衝撃的でした。
よく「水曜ロードショー」なんかで観る、アメリカの酒場のシーンで流れるようなビートに合わせて、アタマをテッカテカにギラギラさせたオジさんが、恐い顔をしながらツバキをガンガン飛ばしながらなにやら叫んではいるが、どうやら日本語らしい。そして彼を観て絶叫している観客は全て、「太陽にほえろ」でマカロニやジーパンに吊るし上げられる、チンピラのような格好をしていてそれもまた怖い、でした。(笑)


そう、今までみたような長髪で英詞の洋楽のロックの人とも、黄色い声援を受け笑顔で歌うアイドル達とも、そして面白いMCで会場を爆笑に誘う日本のフォークグループのライブ盤とも全く違う異様な光景でした。しかし、その異様な状況に引き込まれたワタクシは、気がつくと何度も巻き戻しを繰り返しまたそれを観るのでした。


そしてココロに言った一言。
「なんにも判らないけど、このオジさんは一生懸命だ!」と。(笑)


そういえば、ヤマリンという地元のデパートの屋上にあるゲームセンターで、ピンボールをしていた時に毎日流れて「カッコイイ曲だな。」と聴いていた、「時間よ止まれ」という曲が、矢沢ナントカという話を思い出したワタクシは、すぐに本屋に飛んで行き、「矢沢永吉全曲集」というスコアを買い、ビデオに収録されている曲からコピーし始め、友達の「ちょっと不良な」お兄さんからレコードを借りてきてはダビングし、またコードを探るという日々が始まりました。


中学三年生になりましたが、
小学生から続けていたスイミング・スクールと矢沢永吉全曲集のコピーに明け暮れ
、受験勉強などまるでせず、成績がまさに「急降下」していくワタクシを見て、オフクロは憔悴していたと思います。それでもバカ息子は、いままでコピーしていたフォーク・ソングとは全く違うそのコード進行に、「ああ、いいメロディだのー!。」と、悦に入りびたっておりました。


そんな夏。
矢沢さんが鶴岡に来る事になりまして、これに飛び上がったワタクシは、「ヤマグチヤ」というデバートの4階に新設されたチケット売り場に、兄貴と二枚分をしっかり買い、その生矢沢永吉を観て「もう、フォークの時代は終わった。」と、勝手に断言してしまいました。(笑)


よく矢沢さんは、彼に付随してムーブメントとなった「不良の文化」のカリスマみたいな捉え方をされますけど、ワタクシの場合は純粋に「ミュージシャン」としか見てませんでしたので、ファッション的には余り影響されなかったです。今考えてみれば、ソロになってから83年頃までの矢沢さんの曲は、彼が上京された当時の横浜の音楽シーン、ブルースロックとかソウルミュージックに影響されていることがは、ギターを手にしてコードを探ると良く分かります。ブルースもソウルも全く理解していなかった中学生のワタクシには、自然にその世界に導いてくれた入門書のような方なのです。感謝しております。


というわけで受験のための秋の三者面談で、希望の高校には「絶対無理宣言」を担任から突き付けられた母は、知り合いから山形大学農学部の学生さんを家庭教師に雇い入れ、「合格したら何でも買ってやるから、勉強してくれ。」と頼んだオヤジに「じゃあ、エレキギター。」と宣言し、勉強をやっと始めた怒涛の高校編なんですけど。


また次回にさせて下さいー。

2016年8月26日金曜日

★ワタクシ的0歳〜51歳までの音楽拝聴遍歴についての考察。①★



考えてみますと…。
音楽をやっている立場としては、今迄に聴いてきました音楽に格調高きものがあったのか?問い詰めたりすることもなく、ま、書いてみますか。

昭和39年に山形県鶴岡市鳥居町という場所で生まれるわけですね。
現在でも、その頃にワタクシのオヤジが聴いていたライブラリーが実家に残っておりますが、当時はラテンブームだったらしく、東京キューバン・ボーイズのLPが5枚、シングルが10数枚ありまして、それらに混じり二代目広沢虎造師匠の「清水次郎長伝」シリーズ、まいわゆる浪曲の「寿司くいねぇ…」的LPが数枚、何故かザ・プラターズの定番シングル数枚などがありますけれど、…。


いわゆるオフクロのお腹の中で、これらのレコードを「胎教」として聴いていたかは、モチロン定かではありません。しかし、オヤジに触発される事もなく今でもワタクシの兄貴共々虎造師匠の大ファンでありますし、泥酔した30代のある日の明け方、友人のアパートで聴いた1曲に触発され、その足で吉祥寺の新星堂の開店を待って購入したブエナ・ビスタ・ソシアルクラブのサントラ盤などをみても、何故あの時キューバン・ソンに触手がはたらいたのかは、やはり「胎教」のせいだったのかも知れません。


物心を着きましたときには、
隣市でもある山形県酒田市高砂という海辺の村に引っ越しておりまして、すぐ裏の防砂林を超えると、日本海が望める夏素晴らしく冬厳しい場所でしたが、近所に布団に詰める綿工場がありまして、そこの玄関先の土間に家具調のステレオが置いてありまして、そこの家のお兄さんがよく掛けてくれたのが中尾ミエさんの「かわいいベイビー」でした。


余り何度も掛けるもんですから、ワタクシこの曲をソラで歌えるようになってしまい、夕方家に帰ってからも大声でリピートして歌い、オヤジからキツーいゲンコツを喰らった思い出があります。(笑)3歳にして、アメリカン・ポップスへの初期衝動だったのでしょうか。(笑)


小学一年生を終了するまで酒田市におりまして、二年生から鶴岡に戻りまして。
三年生の時、西城秀樹さんにかぶれました。(笑)初めて自分でポップスのレコードを買ったのが秀樹さんの「ちぎれた愛」でありましたし、「薔薇の鎖」でのロッド・スチュアートばりのマイクアクションは、もしかしたら最初にロックに触れた時だったのかも知れません。そんな頃、秀樹さんが鶴岡にコンサートしに来る事になり、飛び上がりました!。(笑)当時、田舎にはプレイガイド的な場所はありませんでしたので、レコード屋さんがチケットの販売場所になっておりまして、「銀座堂」という今はもうないそのレコード屋さんに、大友君という同級生と並びましたが、我々の10人位前で売り切れるという、絶望も初めて経験したと思います。(笑)


その後、フォーリーブスのコンサートなんかも観ました。
物凄い大きなスピーカーから出る爆音。乱れ飛ぶ紙テープ、まさに黄色い絶叫。アイドルとはなんたるかを知りました。四年生になると兄貴が中学となり、兄貴のライブラリーに吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫、チューリップなどのフォーク系、またビートルズ、カーペンターズ、オリビア・ニュートンジョン等の洋楽が入ってきましたが、弟のワタクシがそれらの大切なレコードを掛ける事は無論ゆるされず、病気で寝ている時、こっそり隠れて掛けて聴いていましたー。


熱で半ばうなされながら吉田拓郎の「人生を語らず」を聴く小学四年生。
タイムマシンがあるなら、あの時の自分を褒めてあげたいです。(笑)


中学生になりました。
兄貴がFを押さえられなく挫折した、ネックが思いっきり反ったフォーク・ギターを片手に
明星の付録の歌本からひろったコードで歌うことのできたワタクシに、アメリカからとんでもないバンドがやってきます。

KISSです。
NHKのヤング・ミュージックショーで観た彼らの武道館公演に鳥肌が立ちました。今同世代の方でハードロックのアプローチを続けている方の、おおよそ8割方は彼処からスタートされたと断言して差し支えないと思います、その位衝撃的でした。その頃になると、二光の通販あるいは、明星の歌本の裏表紙にあったトムソン・トーマスなどの安いエレキギターを購入する同級生が出てきて、ツェッペリンやパープルやジミヘン等を遡っていくわけですね。「デトロイト・ロックシティ」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」「天国への階段」は鶴岡のロック少年の三種の神器といっても過言ではなかったかと思います。(笑)


しかし、当時のワタクシはフォークギターにカポタストをつけて、知っているコードの曲しか歌えないただのフォーク好きの少年でしたので、ハイコードを多用するハードロックのスコアについてゆけるはずもなく、また英詞をメロディに乗せることにも慣れずに、レコードは聴いていたのですが、途中で寝ちゃったりしてました。特にクイーンとか。(笑)「日本語で歌うロックの人っていないのかな?」とか、漠然と考えてたりしたわけです。なにしろ地方には情報がなさ過ぎました。


ちょっと疲れちゃいましたね。
続きは次回ということでよろしくお願いいたしますー。

2016年8月5日金曜日

★シン ゴジラにおける「想定外」についての考察★



また個人的にはイヤな季節になってきました。
昨年はついに“ 熱中症 ”なるもので病院送りとなり、ベッドの中で徹底的に水分と若干の塩分を投与されたにも拘らず、なかなか排泄されるものが出ず、「こんなに入っていくものなのか。」と、人体の神秘なるものにむしろ感心をしていました。恐ろしいものです、皆様も充分御注意下さいませ。


さて、ウワサの「シン ゴジラ」を観てきました。
たまたま「映画の日」でもありましたニュー八王子シネマは、改修されて尚昭和の映画館の面影を残す佇まいで、ゴジラ映画を観るにはじゅうぶんな環境。(笑)開演前に大きい方をもよおしましてトイレに入れば、和式しか空いてなくそれでさえ「昭和の男は和式が基本!」などと、ワケのわからない理屈を唱えつつ跨ったのでありました。(笑)


さて、レイトショー20:40から始まった約30年振りのゴジラ映画の感想ですが…。


なんでも今回のこの映画の監督さんが、エヴァンゲリオンの関係者(すいません、有名な方らしいのですが、どういうポジションの方なのか全く存じあげておりません。)との事は、公開前より伺っておりましたが、ワタクシこのエヴァンゲリオンなるアニメ(?)を全く知りませんでしたので、その点を全く先入観なく拝見できた事には、いささかの幸福感がありました。


今回の作品には「想定外」という言葉が何回も出てきます。
ま、そりゃ突然東京湾に怪獣が現れる訳ですから、確かに「想定外」なんでしょうけど、この「想定外」という言葉を隠れ蓑として、政府対応が「責任転化の応酬」を行う場面、また現在の自衛隊法の盲点を突かれて狼狽えてしまう、最終決定者としての内閣総理大臣。また、ゴジラの秘密を独占しようとして、積極的に介入するアメリカ政府と米軍。次の権力ポストを画策する官僚等。


確かに今迄のゴジラ映画にはない、いわゆる「人間模様」な作りにはなるほどな的要素があったと感じましたし、特に総理大臣の狼狽え様などは、「誰がやっても同じ」なんだなーと痛烈に思いました。しかし、役者さんの小芝居が少し匂い過ぎてて、菅直人さんや村山富市さんなんかをどうしても連想してしまうのは、ワタクシだけだったんでしょうかね?(笑) 役者さんの選定というものは、どうしても大人の事情が絡んでしまうのでしょうけど、もう少し無名な役者さんでもいいから起用した方が、リアリティが増した気が確かにしました。


CGといいますか、特撮関係ですけど。
なんとかなりませんかね、もう少し。(笑)
経済的な問題なのか技術的な問題なのか人材の不足?なんでしょうか。
アサイラム・レーベルとかのB級映画より少し上、あるいは同等かも。昭和の東宝、技術の円谷、リスペクト感がたりないんだなと、痛切に思いました。


さて、この「想定外」という言葉の多用でしたが、
どうしても先の震災における福島第一原子力発電所の問題を連想せずにはいられませんでした。そして、福島原発はもはや「ゴジラ」と化してしまい、現在の人間が所持する科学では技術の進歩を待つ他なく、事故発生時も現在においても「想定外の事例でございまして…。」を連発する政府と関係者達。


もはやゴジラは、現実の中に存在するものなのですね。