2018年8月9日木曜日

☆ 約2年半もブログを休んだ「チカラ君」に対する考察 ☆

2年半も更新しませんでした。
その理由は「怠惰」の一言です。自分に厳しく接する事もせずに50数年間も過ごしてきたチカラ君。あーもうどうもこのまま行ってしまうと思います。何故なんでしょうかね!(笑)。


例えば今、夏ですよね。
小学生時代、「夏休みの友」と確か言っていたドリル他絵日記やら自由研究やら工作やらの、山のようにあった夏休みの宿題


「先送り王」という言葉があれば、それはチカラ君の為にあったと思います。
とにかく、「なーんにも」やりませんでした。また「宿題をこなす」と言った室内での行為に矛盾するかの如く、夏休みが終わると必ずクラスで「クロンボ大会」なる、現在ではその言葉が完全に人権問題となるであろう、「日焼け」を競う日なんかがありましたが


新しい物好きなチカラ君の父、「トヨサクさん」が借金して購入した「クーラー」(出始め時は冷房機能しかない)なる神機械を全開にした部屋で、「名糖ホームランバー」等のアイスを昼間貪り食べていたので、元々白人のような「色素の薄い」チカラ君、見事に「初戦敗退」でした。


「夏休みの少年」達の王道と言えば、カブト虫やクワガタ虫などの「昆虫採集」となるのでしょうけど、アレはまだ陽が昇らない早朝や夕方以降が「まずめ時」になるわけですし、そもそも昆虫そのものに興味のない、「カマキリの卵」とか見ると鳥肌が立つようなチカラ君でもありました。


小学3年の終りからスイミングスクールに通い、高校卒業時には「日本ランキング」に食い込む程の「カッパ」なチカラ君でしたが、とにかく夏が嫌いでしたので大事なレースになると、ネガティブな思考が働き屋外での試合ではいい記録が出ず、ベストタイムは皆エアコンディショニングされた室内プールで出したものでした。


そして53歳な夏。
ほぼ何もせずヘラヘラとわらい、エアコンの効いた部屋にて様々な酒類を嗜みつつ、アマゾンプライムやらフールーやらの文明の力にて「トラック野郎シリーズ」などを観賞するチカラ君


今やっとブログを更新しました。

申し訳ありません。

2016年9月27日火曜日

★ワタクシ的0歳~51歳までの音楽拝聴遍歴についての考察③★



高校編その1。

こんにちは。
さて、9月7日にエルビス・コステロの東京公演に行ってきました。今回は彼一人だけの「弾き語り公演」で、ギターとピアノを弾いて往年の名曲の数々を歌ってました。確か彼がデビューしたのが1977年辺りだと思うのですが、日本では始めパンクとかニューウェーヴの括りのような扱いだった気がしますけど、どんどん彼の音楽は変遷してゆきまして、最近はクラッシックとかジャズにみられる複雑なコード進行を駆使して素晴らしい曲を産み続けています。今回ワタクシは彼がピアノを弾いて歌う曲にかなり感銘を受けましたが、アレ奥様のダイアナ・クラールの影響も受けているのでしょうか。


あ、音楽拝聴遍歴でしたね。笑


1980年に山形県立鶴岡工業高等学校色染化学科というところに入学します。
当時は高校入試が3教科制(国語・数学・英語)で、ワタクシの母校は当時、3
教科で180点取れば合格ラインのそこそこ緩い学校でしたけれど、ワタクシの
入った色染化学科というところは、完全に定員割れしておりまして、単願で志望すれば、140点位で合格できました。


しかし、それでも中学の最終三者面談で担任より「単願でも絶対無理宣言」をされたワタクシでしたので(笑)、そこは猛勉強をして受験したわけです。さて、ここで疑問が生まれますね。「何故そこまでその学校にはいりたかったのか?」ですがそれは、


①: ワタクシは小学3年からスイミング・スクールに通い、中3の背泳ぎで東北の選手権を獲得していて、当時鶴工(短縮しました)はキラ星輝く諸先輩の下、東北で一番水泳部が強かったので、そこでなければイヤだったから。


②:ワタクシの実家が呉服店でしたので、繊維工学と染色工学を学べよとの母の強い希望と、私立のヤバイ高校だけは絶対ダメというオヤジの見栄のため。


だった訳です。(笑)また、当時既に公立高校でも学校推薦によるスポーツ推薦制度は確かに存在しておりましたが、いくら東北で一番を獲ったスイマーでも、
えーっとその…内申書というものがですね…。
中学校側が、ワタクシを推薦するに足りる成績をワタクシが有していなかった…、つまりバカだったのですね。(笑)で、これはもう受験するしかないと。


で、受験しました。
それで本当にギリギリで合格できたのです。ほんとギリギリでした。(笑)そして、晴れてオヤジとの約束のヤマハのストラトキャスターと30Wのアンプも手に入れる事が出来ました。それで少しずつ曲のコピーとオリジナルなんかも作り始めました。今も当時のオリジナルのテープとか録音したのあると思いますが、それはちよっと…(笑)。


さて高校に入学しましたが、新たなる試練が待っていました。「単位取得」です。
始めのうちは落第したら大変だと必死に勉強しました。しかし、ワタクシの母校は「工業高校」で進学校ではありませんでしたので、緩い補習と緩い追試でこれは切り抜けていく事が出来ましたが、もうひとつ「工業高校」ならではの「縦の社会」、いわゆる上下関係が必死でした。元々「誠実勤労・質実剛健」が校是の硬派な我が母校、プラス当時はいわゆる「ヤンキー全盛期」でしたので、これにはつくづく閉口しました。1年生のうちはとにかく「目立たぬこと」だった気がします。


そんなワタクシでしたから、矢沢永吉さんなどは当時「ヤンキーの権化」のような存在でしたので、隠れるように聴き1980年にも鶴岡公演がありましたが、これも隠れるように観に行きました。それからキャロルにも手を出しのめり込み、キャロルの著書「暴力青春」で、いかに彼らがビートルズに影響を受けたかを知って、それまで兄貴の部屋からたまに聴こえてくるビートルズを、本格的に聴いてみようではないかと、再び兄貴の部屋に潜り込んだわけです。


兄貴のレコード・ライブラリーと、ワタクシのライブラリーはその当時既に完全に隔離され、その趣向は全く異なっておりましたが、兄貴のビートルズライブラリーは事欠かず、LP盤全てと国内盤シングル数十枚、それに兄貴が崇拝していたチューリップの財津和夫さんのFMでの「ビートルズ特集」のカセット数本。これでほぼビートルズの全てが聴けたわけです。この年、兄貴が「日本のロックンロールの新しい世界はこれだ!」とワタクシに渡した1枚のLP、それが佐野元春さんの1st「Back to the street」だったりして、その存在すら誰も知らず東京でもまだまだこれからの
佐野さんを、FMで一曲聴いただけでLPを買いに行った兄貴も、やはり音楽ファンだったと思います。


さて、そんな兄貴の部屋からくすねてきたビートルズの1枚。
それはオデオン編集盤のEPLP(1枚のシングルレコードに4曲入っていたもの)で、これに「I wanna hold your hand」「She loves you」「Please please me」「Twist and shout」(だったと思います。)がはいっておりました。


真剣に聴いてみることにした冬の寒い月曜日の夕方。
今でもはっきり憶えています。当時ワタクシの部屋には、東北地方の冬にも拘らずオヤジが自室にストーブを入れることを許さず、机の足元に小さい電熱器しかありませんでした。そこで聴いた「I wanna hold you hand」のイントロ。
「ガッガ・ガーン!!!」


背骨に電気が走りました。
本当に背骨に電気が走りました。ボリュームも両親が帰って来る前でしたので、相当上げてはいましたがあのイントロのギターの音、そしてキャロルとは全く別次元のサウンドとコーラスワーク。今迄真剣に聴いてなくてすいませんでしたー。的ロック感。既に解散から10年が経ってましたので、ワタクシ的にはロックという見方より、スタンダードなポップスとしか見ていなかったビートルズ。キャロルの方がポップだとその時思いました。

それからは日々、兄貴の部屋で密かにカセットにビートルズをダビングする作業が続きます。(笑)それに加えてストーンズ、キンクス、フーなどのミッド・ブリティッシュものもダビングして行くわけですが、何故かそれらは初期盤しかなく、またヤードバーズからのハードロックに移行して行く物は、残念ながら兄貴のライブラリーにはありませんでした。


そして何故かワタクシ的好みなんでしょうけど、芸術性を求めて行く「ラバーソール」以降のビートルズや、コーラスが余りちゃんとしてないと感じたストーンズは、まだ少年のワタクシには手に余る感もありました。(笑)多分矢沢永吉→キャロルとレイドバックした影響もまだまだ強かったのだと思います。


ま、子供だったんですよ。
何も知りませんでしたから。笑

2016年8月29日月曜日

★ワタクシ的0歳〜51歳までの音楽拝聴遍歴についての考察②★



昨日まで、高円寺の阿波踊りが二日間ありまして、「一年生」という飲み屋さんの手伝いをしました。お店の外で「生ビール300円!」を大声で連呼すること数時間、其の間にサーバーから頂戴したであろう生ビール数杯分。完全にオーバー・スロートしてしまい、本日一日何もせず爆睡でありました。(笑)


あ、音楽遍歴でしたね。


ちょっと横道にそれますが、ワタクシのオヤジという人間はいわゆる「新しもの好き」なひとで、1976年当時、さして裕福な家でもない我が家に60万円相当のビデオデッキを購入し所持しておりました。当時VHSとかβなどという企画は統一されていない時代で、カセットテープはVHSの2倍位の大きさでしたし、3倍速録画なんてのもありませんでしたから、最大60分位で、私のオヤジはそれで仕事で観れない「銭形平次」とか「伝七捕物帳」とか録画していたわけです。さしたる収入もなく、ローレル2000SGXハードトップを乗り回し、先端技術のビデオデッキで時代劇を観るオヤジ。オフクロの苦労は計りしれなかった事は容易に察しがつきます。


しかし、その傍若無人の絶対権力に叛旗を翻す家族が現れました。
ワタクシです。(笑)


オヤジがタイマーで録画するその諸動作をすっかり盗み見していたワタクシは、こっそり何本かあるビデオテープの内の一本を盗み、ヤングミュージック・ショーやらの音楽番組を録画しては友達と観て楽しんでいました。但し、オヤジからかすめたテープは一本しかなかったので、ライブラリーとして保存することはできず、何週間か観たら新たなものを録画するという、それの繰り返しだったわけですね。それでも音楽好きな友達からは喜ばれました。


そんな中学2年生のある日、新聞のテレビ欄をながめつつ「さて、録画して楽しめそうな物はないかな?」と物色していましたところ、山形放送(日本テレビ系)欄に「日本テレビデジタル放送開始記念 番組矢沢永吉 後楽園球場コンサート」というのを発見しました。


「矢沢永吉?」はて、演歌のひと?
フォーク少年のワタクシは何も解らず、ただコンサートと銘打っているので、音楽番組だろうと録画して土曜の早上がりにそれを観たのですね。


しかしそれは全く衝撃的でした。
よく「水曜ロードショー」なんかで観る、アメリカの酒場のシーンで流れるようなビートに合わせて、アタマをテッカテカにギラギラさせたオジさんが、恐い顔をしながらツバキをガンガン飛ばしながらなにやら叫んではいるが、どうやら日本語らしい。そして彼を観て絶叫している観客は全て、「太陽にほえろ」でマカロニやジーパンに吊るし上げられる、チンピラのような格好をしていてそれもまた怖い、でした。(笑)


そう、今までみたような長髪で英詞の洋楽のロックの人とも、黄色い声援を受け笑顔で歌うアイドル達とも、そして面白いMCで会場を爆笑に誘う日本のフォークグループのライブ盤とも全く違う異様な光景でした。しかし、その異様な状況に引き込まれたワタクシは、気がつくと何度も巻き戻しを繰り返しまたそれを観るのでした。


そしてココロに言った一言。
「なんにも判らないけど、このオジさんは一生懸命だ!」と。(笑)


そういえば、ヤマリンという地元のデパートの屋上にあるゲームセンターで、ピンボールをしていた時に毎日流れて「カッコイイ曲だな。」と聴いていた、「時間よ止まれ」という曲が、矢沢ナントカという話を思い出したワタクシは、すぐに本屋に飛んで行き、「矢沢永吉全曲集」というスコアを買い、ビデオに収録されている曲からコピーし始め、友達の「ちょっと不良な」お兄さんからレコードを借りてきてはダビングし、またコードを探るという日々が始まりました。


中学三年生になりましたが、
小学生から続けていたスイミング・スクールと矢沢永吉全曲集のコピーに明け暮れ
、受験勉強などまるでせず、成績がまさに「急降下」していくワタクシを見て、オフクロは憔悴していたと思います。それでもバカ息子は、いままでコピーしていたフォーク・ソングとは全く違うそのコード進行に、「ああ、いいメロディだのー!。」と、悦に入りびたっておりました。


そんな夏。
矢沢さんが鶴岡に来る事になりまして、これに飛び上がったワタクシは、「ヤマグチヤ」というデバートの4階に新設されたチケット売り場に、兄貴と二枚分をしっかり買い、その生矢沢永吉を観て「もう、フォークの時代は終わった。」と、勝手に断言してしまいました。(笑)


よく矢沢さんは、彼に付随してムーブメントとなった「不良の文化」のカリスマみたいな捉え方をされますけど、ワタクシの場合は純粋に「ミュージシャン」としか見てませんでしたので、ファッション的には余り影響されなかったです。今考えてみれば、ソロになってから83年頃までの矢沢さんの曲は、彼が上京された当時の横浜の音楽シーン、ブルースロックとかソウルミュージックに影響されていることがは、ギターを手にしてコードを探ると良く分かります。ブルースもソウルも全く理解していなかった中学生のワタクシには、自然にその世界に導いてくれた入門書のような方なのです。感謝しております。


というわけで受験のための秋の三者面談で、希望の高校には「絶対無理宣言」を担任から突き付けられた母は、知り合いから山形大学農学部の学生さんを家庭教師に雇い入れ、「合格したら何でも買ってやるから、勉強してくれ。」と頼んだオヤジに「じゃあ、エレキギター。」と宣言し、勉強をやっと始めた怒涛の高校編なんですけど。


また次回にさせて下さいー。

2016年8月26日金曜日

★ワタクシ的0歳〜51歳までの音楽拝聴遍歴についての考察。①★



考えてみますと…。
音楽をやっている立場としては、今迄に聴いてきました音楽に格調高きものがあったのか?問い詰めたりすることもなく、ま、書いてみますか。

昭和39年に山形県鶴岡市鳥居町という場所で生まれるわけですね。
現在でも、その頃にワタクシのオヤジが聴いていたライブラリーが実家に残っておりますが、当時はラテンブームだったらしく、東京キューバン・ボーイズのLPが5枚、シングルが10数枚ありまして、それらに混じり二代目広沢虎造師匠の「清水次郎長伝」シリーズ、まいわゆる浪曲の「寿司くいねぇ…」的LPが数枚、何故かザ・プラターズの定番シングル数枚などがありますけれど、…。


いわゆるオフクロのお腹の中で、これらのレコードを「胎教」として聴いていたかは、モチロン定かではありません。しかし、オヤジに触発される事もなく今でもワタクシの兄貴共々虎造師匠の大ファンでありますし、泥酔した30代のある日の明け方、友人のアパートで聴いた1曲に触発され、その足で吉祥寺の新星堂の開店を待って購入したブエナ・ビスタ・ソシアルクラブのサントラ盤などをみても、何故あの時キューバン・ソンに触手がはたらいたのかは、やはり「胎教」のせいだったのかも知れません。


物心を着きましたときには、
隣市でもある山形県酒田市高砂という海辺の村に引っ越しておりまして、すぐ裏の防砂林を超えると、日本海が望める夏素晴らしく冬厳しい場所でしたが、近所に布団に詰める綿工場がありまして、そこの玄関先の土間に家具調のステレオが置いてありまして、そこの家のお兄さんがよく掛けてくれたのが中尾ミエさんの「かわいいベイビー」でした。


余り何度も掛けるもんですから、ワタクシこの曲をソラで歌えるようになってしまい、夕方家に帰ってからも大声でリピートして歌い、オヤジからキツーいゲンコツを喰らった思い出があります。(笑)3歳にして、アメリカン・ポップスへの初期衝動だったのでしょうか。(笑)


小学一年生を終了するまで酒田市におりまして、二年生から鶴岡に戻りまして。
三年生の時、西城秀樹さんにかぶれました。(笑)初めて自分でポップスのレコードを買ったのが秀樹さんの「ちぎれた愛」でありましたし、「薔薇の鎖」でのロッド・スチュアートばりのマイクアクションは、もしかしたら最初にロックに触れた時だったのかも知れません。そんな頃、秀樹さんが鶴岡にコンサートしに来る事になり、飛び上がりました!。(笑)当時、田舎にはプレイガイド的な場所はありませんでしたので、レコード屋さんがチケットの販売場所になっておりまして、「銀座堂」という今はもうないそのレコード屋さんに、大友君という同級生と並びましたが、我々の10人位前で売り切れるという、絶望も初めて経験したと思います。(笑)


その後、フォーリーブスのコンサートなんかも観ました。
物凄い大きなスピーカーから出る爆音。乱れ飛ぶ紙テープ、まさに黄色い絶叫。アイドルとはなんたるかを知りました。四年生になると兄貴が中学となり、兄貴のライブラリーに吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫、チューリップなどのフォーク系、またビートルズ、カーペンターズ、オリビア・ニュートンジョン等の洋楽が入ってきましたが、弟のワタクシがそれらの大切なレコードを掛ける事は無論ゆるされず、病気で寝ている時、こっそり隠れて掛けて聴いていましたー。


熱で半ばうなされながら吉田拓郎の「人生を語らず」を聴く小学四年生。
タイムマシンがあるなら、あの時の自分を褒めてあげたいです。(笑)


中学生になりました。
兄貴がFを押さえられなく挫折した、ネックが思いっきり反ったフォーク・ギターを片手に
明星の付録の歌本からひろったコードで歌うことのできたワタクシに、アメリカからとんでもないバンドがやってきます。

KISSです。
NHKのヤング・ミュージックショーで観た彼らの武道館公演に鳥肌が立ちました。今同世代の方でハードロックのアプローチを続けている方の、おおよそ8割方は彼処からスタートされたと断言して差し支えないと思います、その位衝撃的でした。その頃になると、二光の通販あるいは、明星の歌本の裏表紙にあったトムソン・トーマスなどの安いエレキギターを購入する同級生が出てきて、ツェッペリンやパープルやジミヘン等を遡っていくわけですね。「デトロイト・ロックシティ」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」「天国への階段」は鶴岡のロック少年の三種の神器といっても過言ではなかったかと思います。(笑)


しかし、当時のワタクシはフォークギターにカポタストをつけて、知っているコードの曲しか歌えないただのフォーク好きの少年でしたので、ハイコードを多用するハードロックのスコアについてゆけるはずもなく、また英詞をメロディに乗せることにも慣れずに、レコードは聴いていたのですが、途中で寝ちゃったりしてました。特にクイーンとか。(笑)「日本語で歌うロックの人っていないのかな?」とか、漠然と考えてたりしたわけです。なにしろ地方には情報がなさ過ぎました。


ちょっと疲れちゃいましたね。
続きは次回ということでよろしくお願いいたしますー。

2016年8月5日金曜日

★シン ゴジラにおける「想定外」についての考察★



また個人的にはイヤな季節になってきました。
昨年はついに“ 熱中症 ”なるもので病院送りとなり、ベッドの中で徹底的に水分と若干の塩分を投与されたにも拘らず、なかなか排泄されるものが出ず、「こんなに入っていくものなのか。」と、人体の神秘なるものにむしろ感心をしていました。恐ろしいものです、皆様も充分御注意下さいませ。


さて、ウワサの「シン ゴジラ」を観てきました。
たまたま「映画の日」でもありましたニュー八王子シネマは、改修されて尚昭和の映画館の面影を残す佇まいで、ゴジラ映画を観るにはじゅうぶんな環境。(笑)開演前に大きい方をもよおしましてトイレに入れば、和式しか空いてなくそれでさえ「昭和の男は和式が基本!」などと、ワケのわからない理屈を唱えつつ跨ったのでありました。(笑)


さて、レイトショー20:40から始まった約30年振りのゴジラ映画の感想ですが…。


なんでも今回のこの映画の監督さんが、エヴァンゲリオンの関係者(すいません、有名な方らしいのですが、どういうポジションの方なのか全く存じあげておりません。)との事は、公開前より伺っておりましたが、ワタクシこのエヴァンゲリオンなるアニメ(?)を全く知りませんでしたので、その点を全く先入観なく拝見できた事には、いささかの幸福感がありました。


今回の作品には「想定外」という言葉が何回も出てきます。
ま、そりゃ突然東京湾に怪獣が現れる訳ですから、確かに「想定外」なんでしょうけど、この「想定外」という言葉を隠れ蓑として、政府対応が「責任転化の応酬」を行う場面、また現在の自衛隊法の盲点を突かれて狼狽えてしまう、最終決定者としての内閣総理大臣。また、ゴジラの秘密を独占しようとして、積極的に介入するアメリカ政府と米軍。次の権力ポストを画策する官僚等。


確かに今迄のゴジラ映画にはない、いわゆる「人間模様」な作りにはなるほどな的要素があったと感じましたし、特に総理大臣の狼狽え様などは、「誰がやっても同じ」なんだなーと痛烈に思いました。しかし、役者さんの小芝居が少し匂い過ぎてて、菅直人さんや村山富市さんなんかをどうしても連想してしまうのは、ワタクシだけだったんでしょうかね?(笑) 役者さんの選定というものは、どうしても大人の事情が絡んでしまうのでしょうけど、もう少し無名な役者さんでもいいから起用した方が、リアリティが増した気が確かにしました。


CGといいますか、特撮関係ですけど。
なんとかなりませんかね、もう少し。(笑)
経済的な問題なのか技術的な問題なのか人材の不足?なんでしょうか。
アサイラム・レーベルとかのB級映画より少し上、あるいは同等かも。昭和の東宝、技術の円谷、リスペクト感がたりないんだなと、痛切に思いました。


さて、この「想定外」という言葉の多用でしたが、
どうしても先の震災における福島第一原子力発電所の問題を連想せずにはいられませんでした。そして、福島原発はもはや「ゴジラ」と化してしまい、現在の人間が所持する科学では技術の進歩を待つ他なく、事故発生時も現在においても「想定外の事例でございまして…。」を連発する政府と関係者達。


もはやゴジラは、現実の中に存在するものなのですね。



2016年7月11日月曜日

★「温故知新」なーんて事についての考察。★



参院選終わりました。
やはり投票率が余り変わらなかったのが残念でしたね。自分の意思を示そうとしなかった方が半数近くいるという事ですか…。これから日本は高齢化が進むわけですから、いろんな所で政治に向き合う場面をもう少し考えなければとは思いました。

今回自民党はアベノミクスの成果を訴え、経済再生に向けての更なる前進を主張してきた訳ですが、資源的部分でも金融の世界でも海外に依存している部分が強いですし、余程舵の切り方を誤らない限りは、まぁほぼ世界経済と同調せざるを得ない状況なんだろうと思いましたし、これから劇的に景気が回復するとは有権者もそれほど考えてなかったのかもしれませんね。

さて全てではありませんが、野党の皆様は今回の選挙で与党が3分の2を取ってしまうと憲法改正に突き進んでしまうと連立候補まで出して、物凄い「憲法改正反対」を唱えてきましたが、民進党は名前まで変え、イデオロギーの違う政党と手を組んでまでしても阻止する結果を出せなかったのは、残念だっと思います。しかし、この結果とこの危機感の中でしっかり話し合いの場所と機会を作り得たわけですから、国民投票のその時まで国民の理解を得られる確固とした議論を尽くしてほしいです。無党派層にもです。


さて、学校で「温故知新」という言葉を習いました。
ワタクシの学んだところが正しいとすれば、「古きを尋ねて新しきを知る」なんですよね。先人や先達の方々から「今の日本は、戦前のきな臭い時代に似ている。」というお話がたまに出てきます。そこから今の時代を嗅ぎ取り今、護憲・改憲の議論を尽くすことは
当然必要です。しかし、なにもそれだけではなく日本古来の文化や風習などからにも「温故知新」を考えなければいけないのだろうし、そんなことを忘れてしまったのかな?と感じざるを得ない選挙戦だったなと個人的には思いました。


例えば三宅洋平クンが「ヤーマン」を連発しているのを見て「は?」と調べても出てこなかったり、「put your hands up!」と実に流暢な発音で叫ばれても、多分お年寄りにはわかんねーだろうなとか、やはり違和感だったしどーしても入れられなかったのです。ワタクシが山形県鶴岡市という産で、そこの風土や文化で育った「はじまり」があったからなんでしょうか。


でもね、彼からも色々教わりました。
前回より数万票取れた事は素晴らしいと思いますよ。

2016年7月8日金曜日

★日曜日はとっとと投票行って釣しに行きます。★


こんにちは。
参院選の街頭活動も大詰めになりましたが、個人的には大分前から何処に誰に入れるかは決めておりますので、日曜日はとっとと投票して朝から今年初の浅川釣行することにしています。

今年の浅川、春先からの偵察している結果を申しますと、ワタクシが八王子に越して来てから多分一番お魚チャン達の活性がよく、川面を見ますと良型がチラホラしておりまして、しかしながら神楽亭も今年から二人になり大切な年なので、ついつい釣行もままならず、いつ行こうかいつ行こうかと考えておったのですね。で、選挙の結果とか待ちわびることなくお魚チャンとのやりとりに集中できるなと考えまして、日曜日にしたのです。
こうなると、選挙の結果と釣果をテンビンにかけた場合は、
やはり、釣…。(笑)


てなことを申していますと、「国政に対して余りにも無責任じゃないの?」と言われそうですので、多少は述べさせていただきますとも。


今回の参院選、与野党共色々言いたい事は言い切りました。
ここで大切なのは有権者が与野党の意見にどれだけ関心をもったのか?また、18歳から選挙権を持つことで200万人程その数が増えて、どれだけ新しい支持が得られたのか?まず、これが一番重要な位置を占めてくると思うんですよね。


つまりは、投票率だと思います。


これだけ体制がはっきりと分かれて、SNS等でも双方誹謗中傷の嵐が吹き荒れた結果、投票率が前回と同等或いは下がった場合、その体制が決定した時の両陣営の落胆の度合いはどれだけなんでしょうかね?まあ、一概にマスコミを信じるのは危険ですが、今日(7月8日現在)あたりの選挙動向を流しているのを見ますと、自公連立は定数の3分の2を取る勢いらしいですし、イデオロギーが違ってでも共産党と組み、統一候補擁立という結論を出した民進党は、10議席は失うんじゃないかとか、それでも共産党は単独で或いは比例で議席を倍にするとか…。


また勝手な事をタレ流しています。


しかしね。
例えば体制が組織票を集めた与党側の勝利だとしても、或いは地道に国民に訴えた野党側が勝利したとしても、投票率30%位だとした時のワタクシの「ガックシ度」はハンパないのです。また、30%位で勝利した側が、「我々の訴えた事が民意に反映された結果です。」などと、決して言って欲しくもありません!。


そんな事にならないことを祈りつつ釣りしに行ってきます。
さぁ、お魚チャン達よ。
覚悟!(笑)